いしがき、なび。
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「野崎公園」へ向かう大浜公民館近くに凛々しい姿の銅像があります。その像の主が「オヤケアカハチ」です。民を率いて果敢に戦う姿は「オヤケアカハチ」がどれ程、地域の英雄かがわかります。こちらの碑文には、「西暦1500年(明応9年)、当時の琉球王府への朝貢を拒否、反旗を翻した驚天動地のオヤケアカハチの乱の主人公・オヤケアカハチの銅像。-その人物像は独立心が強く、体つきが人並みはずれた大男、抜群の力持ち、髪は赤茶けた精悍な顔つきの若者- と伝えられている。正義感が強く、島の自由のために先頭に立って権力にたち向い、八重山の人々から太陽と崇められ信望を一身に集めていた。爾来、今日まで英傑・オヤケアカハチの遺徳は石垣島の人々に『アカハチ精神』として受け継がれている。」と記載されています。「オヤケアカハチ」は、生誕地は波照間島と言われ幼少の頃から豪傑としての頭角を表していたという伝説があり、波照間島には生誕記念碑がある。「オヤケアカハチ」は、琉球王国側の歴史資料上には大浜の一豪族として登場しており、八重山の首領として島民の広範な支持を背景に、琉球王国への編入を拒み、税を拒否し、先に編入されていた、宮古島に対し攻撃をしたため琉球軍に敗れたと言う乱の記載があります。併せて、石垣島の土着神である『イリキヤアマリ神』の祭祀を琉球王国の尚真王が弾圧したため、1500年にオヤケアカハチが島民の先頭に立って反旗を翻して奮戦するも、討ち取られた。との記載も残されています。これは、八重山・宮古に現存する諸史料を紐解くと、元来の宮古・八重山のは琉球に属さない大平山(タイビンサン)連合であったことがあります。敗北したものの、琉球王国の侵攻から大平山を守ろうとした「オヤケアカハチ」は、先島諸島の英雄として現在に伝わり、『イリキヤアマリ神』を伝える御嶽も石垣島に残っており、変わらず信仰の対象となっています。
冨崎原一帯には、三百唐人墓とよばれる当時の島民が亡くなった苦力を弔うためのレンガの墓碑が戦後まで数多く点在していました。 現在では、レンガできた墓碑は八重山博物館に収蔵されています。